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われ思うゆえにわれあり。 [知恵のことば]

デカルトはなぜ、「われ思うゆえにわれあり」と言ったのでしょうか?

デカルトのことを調べてみると彼はその当時。最高で最先端の教育を受けたようである。

その結果がその言葉に行きついたのでしょう。

考えるから、その考えることによって、存在する。考えるから、その考えによって行動する。

行動が先ではなく、考えによって行動になることを話しているのです。

彼のことを調べている内に私は御言葉のことを思いました.

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[鄭明析牧師による夜明けの箴言から]

考えの祝福

考えの祝福だ。

全能なる神様は祝福をくださるとき、まず「考え」でくださる。

それを「実践」すれば、それに該当する祝福を受けるのだ。

神様の考えが祝福だ。

神様の考えで生きたら、人間でありながら神になる。

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鄭明晰牧師の摂理の御言葉とある意味、同じだと思いませんか?

先生は聖書を通して、神様、聖霊さま、御子を通して、御言葉を学ばれました。

先生は聖三位に学ぶことを通して、知識を得たんだとおっしゃいました。

やはり、すべての根本は神様ですよね?

結局、この世の中の学問を学ぶことは神様を学ぶことに通じることを感じざる得ません。

当時のこと考えてみても、中世のヨーロッパ。

キリスト教圏では学問を学ぶ場所は教会ではなかったでしょうか?

実際にデカルトが学んでいたのは、イエズス会が経営する学院(ラ・フレーシュ学院)でした。

時代の流れと共に、いつの間にか?学問と切り離されてしまいましたが・・・

創造者である神様を学ぶことが結局、学問に通じるという事を感じました。

皆さんも御言葉を学んで見ませんか?

摂理の御言葉は、理致があり、自然の理(コトワリ)を壊すものでも否定するものでもありません。


最後に、皆さんの中には、学問と宗教は違うと思われる方もいらっしゃると思います。

お気を悪くされた方にはゆるしていただけたらと思います。




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